ミドリが記憶を取り戻したその日の夜。改めて全てをネーダに打ち明けた後、珍しく彼女が一緒にいてほしいとせがんだため、それに応じる形でミドリは彼女を寝かしつけていた。
ネーダの肩をポンポンとたたきながら、ミドリはふと、彼女と出会った日のことを思い返していた。
 
 
その日、ミドリはリテムシティで仕事をこなしていた。
突如としてメガロティクス化した「スナイダル・ヴェラ」と「レヌス・ヴェラ」がほぼ同時に出現する現象がリテムシティで発生し、大量の負傷者が出たとの緊急連絡を受け、その対応のために派遣されたのだ。
幸い、戦闘可能なアークスとともにこれらを撃退し、負傷者もリテムの医療班と連携し、なんとか全員の対応を完了させることに成功した。
だがここで不測の事態が発生した。同じタイミングで各地に大型エネミーが出現し、ハルファ全域に緊急警報が発令されたのだ。
これについてはすでに経験を積んでいるため、各地の医療スタッフの対応は手慣れたものであった。当然ながら、セントラルシティERも副センター長のナギサと外科担当のエリクを中心に、ミドリが不在でも対応できる体制を整えていた。
問題は別のところにあった。この日は珍しく各地で負傷者が大量発生したため、負傷者のテレポートを優先させる関係上、リューカーデバイスに使用制限がかかってしまった。そのため、ミドリはセントラルまでテレポートできなくなってしまったのである。
「……仕方ない、中央エアリオまではテレポートできるから、そこからは歩いて帰るか……」
ミドリはため息をつきながら、中央エアリオまでテレポートした。
 
セントラルシティの入り口が見えるところまで歩いたところで、ミドリはある違和感に気づいた。
前方に何かがいる。テイムズにしては細長いし、地面にべったりくっついている。くっついているというよりは……
「……倒れている人がいる?」
ミドリは大急ぎで駆け寄り、声をかける。
「君、大丈夫か?」
倒れていたのは、小柄な女の子。年齢は10代前半といったところか。
ミドリの声に反応したのか、少女はかすかに目を開けて呟く。
「……ねー、だ……」
そして少女は意識を失った。
「おい、しっかりしろ!」
ミドリが声をかけ、身体を軽く揺するが、反応はない。ミドリは冷静に呼吸や外傷の有無、身元を確認できるものが無いかを調べる。
「呼吸は正常、脈もある。目立った外傷は……なし、気を失っているだけか。身元を確認できるものはなさそうだな……」
ミドリは少し安堵した。だがこのまま放置していてはエネミーやテイムズに襲われる危険性がある。
ミドリはERに連絡を入れた。
「僕だ。セントラルシティの入り口付近で倒れている人を見つけた。ID不明の女性、年齢推定で13~14歳前後。意識はないが呼吸と脈拍は正常、目立った外傷もない。今から連れて帰るから、空いている診察室の準備を頼む」
ミドリは通信を切ると、少女を背中におぶり、ERへと向かった。
 
ERに到着すると、ミドリはすぐにナギサを呼び出し、少女の体表の確認を頼んだ。
本来であれば小児科が専門のミドリが行っても問題はないのだが、相手は仮にも女の子だ。このようなパターンで、かつ命に別条がない場合は、ミドリはなるべく女性医師を呼んで、簡単な確認を手伝ってもらうようにしていた。
ミドリが受付でカルテを記入していると、ナギサが戻ってきた。
「体表の確認、終わりました」
「ありがとうございます、ナギサさん」
「衣服で隠れていた部分も含め、体表には特に目立った外傷はありませんでした。念のためエコー検査もしましたが、同じく特に異常はありませんでした」
「……『乱暴』された可能性は?」
「安心してください、そのような形跡も見当たりませんでした。変態に襲われたということもないでしょう」
「なるほど……そうすると、単に気絶してただけ?」
「その可能性が高いと思いますね。と言っても、なぜシティの外で倒れていたのかは謎ですが……」
「……まあ、彼女が目覚めたらおいおい尋ねてみるのもアリでしょうし、そこは後回しでもいいかな……?」
ミドリは思案しつつ、いったんカルテの記入を取りやめた。
「彼女の様子を見てきます。何かあったら呼んでください」
ミドリは少女の下へ向かおうとしたその時、ナギサが待ったをかけた。
「その前にミドリ先生、彼女のことで1つお伝えしたいことが……」
 
少女はいまだ気を失っているようであったが、呼吸は相変わらず正常であった。おそらくナギサが念を入れて取り付けたのだろう、心電図モニターも正常値を表示していた。
少女の状態に良くも悪くも変化がないことを確認した後、ミドリはポケットから四角い物体を取り出した。
「……なんで彼女も、これを持っていたんだろうねえ」
それは淡いピンク色をした端末。それはすなわち。
「どう見ても、スマホだよなあ、これ」
そうつぶやくと、ミドリはポケットから別の物体を取り出した。黒色の長方形の端末。それもすなわち、スマホであった。
黒いスマホは、ミドリが目覚めたときに、唯一持っていたものであった。その後、そのスマホにはミドリの過去の情報が記録されていたことが明らかとなったが、それは別のお話。
ミドリは2つのスマホを見比べながらつぶやく。
「こうも共通点があると、ナギサが気にかけるのも無理ないか……」
 
「……で、なんでまたここに……」
少女のもとに行く直前にナギサに呼び止められたミドリ。2人の姿はセンター長室にあった。
ERにも当然センター長はいる。が、センター長は多忙を極めているようで、滅多に、というより全く顔を出すことが無い。ゆえに、この部屋は来客用の応接室、あるいは重要な案件の話し合いの場と化していた。
「こんなとこで話をするってことは、他の仲間にも聞かれたくないってことですよね?」
「……ミドリ先生、今は敬語を崩してもいいですよ?2人きりですし」
その言葉に、ミドリの態度がいつもの調子に変わった。
「……そうだね。それでナギサ、話っていうのは?」
ミドリの問いかけにナギサは応じず、その代わりにポケットから何かを取り出し、ミドリに渡した。
特に気にもせず受け取り、改めてきちんとそれを見た瞬間、ミドリの顔色が変わった。
「……これは」
「診察中に見つけました。彼女の唯一の所持品です」
ナギサが渡したものこそ、淡いピンク色の端末 ―少女のスマホ― であった。
「貴重品なので、彼女が目覚めたら返すつもりではいましたが…… その前に、先生にはお伝えしておこうと思って」
「だからわざわざここに呼び出したのか……」
「……先生のスマホのこと、皆さんには言ってないんですよね?」
「……ま、聞かれてないからねえ」
ミドリがスマホを持っていることはほとんど誰にも伝えていない。その理由は言葉通り「聞かれなったから」というのが9割、残り1割は自分の過去について不用意に他人を巻き込むべきではないと考えていたからであった。
そのごく一部の例外の1人が、ナギサであった。自分に万が一のことがあった場合に備え、ナギサには自分の出自に関するすべてを打ち明けていた。
ナギサはミドリに尋ねた。
「それで、これからどうします?」
「とりあえずこのスマホは適当なタイミングで僕が返しておくよ。それよりナギサ、司令部にこの件を伝えるとともに、この子の素性を調べてほしい」
「了解しました」
ナギサはそういうと、司令部に連絡を取り始め、ミドリは少女の下へ向かった。
 
「さて、どうしたものか……」
スマホを見比べながら、ミドリは思案していた。スマホを彼女に返すタイミングを考えていたのである。
「ここまで共通しているとなると、恐らく次に起こるのは…… な~んて、まさかそんなことはないよね」
脳裏によぎった予感。ミドリは首を振ってその予感を打ち消そうとしたが、しかし予感はますます脳裏にこびりついた。
「……一旦一時保管ロッカーに入れておいたほうがいいかもね……」
ミドリは彼女のスマホをロッカーに預けに行こうとした。その時だった。
カサッ、と布のこすれる音が聞こえた。
「……ん?」
ミドリはスマホをポケットの中に戻し、彼女のもとに戻る。
布団越しに、少女の腕が微かに動いたのが見えた。
そして少女が、ゆっくりと目を開く。
「……お目覚めのようだね?」
ミドリは少女に声をかける。少女がゆっくりと起き上がろうとしたのに気づいたミドリは、そっと制止した。
「おっと、そのままでいいよ。悪いけど、少し胸の音を聞かせてもらうね?」
ミドリは聴診器を少女の胸に当てた。服越しのため多少聞こえにくくはあったが、目立った異常はなさそうだ。心電図モニターも相変わらず正常値を示している。
「……呼吸、脈拍ともに異常はなさそうだね。もうしばらく経ったらしっかり調べてみよう。それより、ここがどこかわかるかい?」
ミドリは少女に問いかける。少女は首を横に振った。
「ここはセントラルシティにあるメディカルセンターのER…… 救命救急センターの病室だ。僕はミドリ。入院中の君の担当医だ。よろしく頼むよ」
ミドリは少女に軽く笑いかけながら続ける。
「君はセントラルシティの入り口付近で、気を失って倒れていた、覚えているかな?」
ミドリの問いかけに少女が返した答えは、想定外のもの ―否、ミドリにとっては、最悪の想定のものだった。
首を横に振りながら、少女が答える。
「……せんとらるしてぃ、って、なんですか……?」
ミドリは嫌な予感を感じながらも、少女に説明する。
「セントラルシティは、エアリオリージョンに位置する、惑星ハルファ最大の都市だ。この病院も、セントラルシティに位置している。」
「……はるふぁ?えありお?」
少女の受け答えを聞いたミドリは、ある確信を持った。
(彼女は、ここに来たときの僕と同じだ。とすると……)
ミドリは別の質問を少女に投げかけた。
「君、名前は?今いくつだい?」
ミドリの問いかけに、少女はか細い声で答える。
「……わからない、です……」
「……そっか。わかった。少し待っていておくれ」
ミドリは立ち上がり、部屋の入り口の近くに向かうと、通信機を起動し、院内の内線に繋いだ。
「ERのミドリだ。小児神経科医を至急診察1番までよこしてくれ。……記憶障害の疑いがある」
 
少女が目覚めてから約1時間後、小児神経科医のヴィネの診察が終わり、ミドリは受付で診察の結果を聞いていた。
「結論から言うと、重度の全生活史健忘、いわゆる記憶喪失の状態にあると考えられるっす。自分の名前や出身、年齢、家族構成、あらゆる情報が抜け落ちているみたいっす」
「やっぱりそうか……まるで僕みたいだな」
思わず口から出た言葉に、ミドリは苦笑する。だが、ヴィネはますます深刻な顔になった。
「……それから彼女の場合特徴的なのは、一般的な常識も抜け落ちている可能性があるってことっす」
「……一般的な常識も?」
「そうっす。時計の読み方であったり、文字の書き写し、そういった検査もやってみたっすけど、すべて最初はうまくできなかったっす。いや、うまくできないというより、まるでやり方を知らないかのような」
「ということは、まさか……」
「ええ。彼女は真の意味で記憶がない状態、まるで何も知らない乳幼児のような状態、ということっす。」
予想外の結果に、ミドリは言葉を失った。
その様子を見て、ヴィネは慌てて付け足した。
「ただ、悪いことばかりじゃないっすよ?幸いなことに、コミュニケーション能力や知能自体には特段の異常は見受けられなかったっす。会話も普通にできるし、さっきの時計の読み方や文字の書き写しについても、少し教えるとすらすらとできていたっす。むしろ、同年代の水準を上回っている可能性すらあるっすね、このあたりに関しては」
「つまり、最初はできないことも、一度学習しなおせばできるようになると?」
「その可能性が高いっす。なので、失った記憶を取り戻すよりも、まずは一般的な知識を教えることから始めたほうがいいと思うっすよ」
「そうか…… ありがとう、助かった」
ミドリが礼を言うと、ヴィネはぴょこっと会釈を返して去って行った。それと入れ違いに、今度はナギサがミドリのもとにやってきた。
「ミドリ先生、彼女の素性についてですが……」
「おや、もう出ましたか。結果は?」
ミドリの態度はほかの職員の手前か、再び敬語に戻っていた。
「それが…… データベースには彼女の特徴に該当する人物の情報はなく、司令部からは星渡りの可能性がある、との連絡を受けました。ただ……」
「……ただ?」
「……ミドリ先生、彼女を助けたとき、近くに降下ポッドはありましたか?」
ナギサの問いを受けたミドリは、彼女が何を言わんとしているのかを理解した。
「……いえ、なかったです」
「やはりそうでしたか…… 先生から連絡を受けた時間の前後、星渡りの降下ポッドやポッドのパーツらしき部品が落下してきたとの、市民やアークスからの連絡はなかったそうです。念のため検索期間を一週間前まで、検索範囲をハルファ全域に拡げて調べてもらいましたが、やはりそのような報告はなかったと」
「……となると、最も可能性が高いのは……」
「ええ、先生のように、他の世界からやってきた可能性……ですね」
「なるほど……」
ミドリは自分の予感が的中したことを悟った。やはりこの少女と自分には、何か繋がりがあるのかもしれない、と。
ミドリはナギサに指示を出す。
「……そうなると、ハルファには身寄りがない可能性が高いから、退院後の後見人の選定が必要になるな…… ナギサさん、市民生活局に連絡、後見人の選定を依頼してください。ただし本人が最重度の記憶喪失状態であること、それから別次元から来た可能性を考慮し、特別指定レベル3を適用したうえでの選定を。責任者はセンター長名義で」
特別指定レベル3。対象となる児童の状況に応じて指定される中で最も高いものであり、児童本人に重度の障害があったり、児童本人が過酷な虐待を受けてきたりといったケースに適用されるレベルである。当然、育てていくにあたり格段の配慮が必要になるため、選定される後見人は経験豊富な熟練の者、あるいは教員、保育士といった子どもに関する専門知識をもつ者に限定される。ゆえに、後見人の選定には時間がかかり、また候補となる者も絞られる。
それでも、彼女はきちんとした後見人の下で、幸せに育ってほしい。その思いで、ミドリはレベル指定に踏み切った。
だが、その決断をしたミドリの胸の内は、なぜかモヤモヤとしていた。
とその時、受付にあるセントラルモニタからアラームが鳴り響いた。ミドリが確認すると、少女のいる病室からのものだった。
「診察1番急変!手の空いているスタッフは僕についてきて!」
ミドリは叫ぶと、診察一番へと駆けた。
 
診察1番に着くと、先に来ていたのか、看護師のマヌーが処置の準備をしていた。
「何があったの!?」
「わかりません!私が隣の患者を見に行ったあとに、過呼吸の状態に陥ったみたいです!」
「ここを離れてから何分くらい経ってる?」
「おおよそ10分程度かと!」
ベッドに横たわる少女は、苦しそうに呼吸している。
「ちょっとベッド起こすね~、ゆっくり呼吸してみようか。息を吸ったら僕が10数える間にゆっくり息吐いてみよう。いくよ~?息を大きく吸って~……はい吐いて、1、2、3、4……」
少女の呼吸を整えるサポートをしながら、ミドリは指示を出す。
「エケルコ5mg静注、引き続き呼吸をサポートして様子を見よう……ん?」
その時、ミドリは少女の顔が少し赤くなっているのに気づいた。
「誰か体温測って!熱あるかも!」
ミドリの指示で、近くにいた看護師が体温を測る。
「37.2度です!」
「やっぱり少し高いね。マヌー、君が隣に行く前、発熱の兆候はみられたかい?」
「いえ、みられませんでした。先生は?」
「僕もみられなかったと思ってる。とすると、この発熱も心因性?過呼吸に関連してるのか……?」
ミドリは逡巡するが、すぐに方針を立てる。
「とはいえそこまで熱は高くない、まずは呼吸状態を正常に戻すのが先だ。解熱剤の投与はある程度様子を見てからでもいいだろう……よ~しいい感じ、そのままもう少しゆっくり呼吸してみようね~」
ミドリは少女の呼吸のガイドを続けた。20分ほど経っただろうか、少女の呼吸が落ち着いてきた。
「よ~しだいぶ良くなってきたねえ、体温は?」
「36.7度です」
「オーケー、熱も下がってきたね…… お嬢さん、調子はどうだい?」
ミドリは少女に問いかける。
「……少し、寒気が……でもさっきよりはよくなってきました」
「さっきより?ということは、熱が出ていた間、寒気がしてたってこと?」
「は、はい……」
「ふむ…… マヌー、念のため感染症の検査を。多分陰性だとは思うんだけど…… 」
「わかりました、準備してきます」
ミドリの指示で、マヌーが検査の用意のために部屋を出た。
「ごめん、ちょっと僕も席を外すよ」
少女に声をかけ、ミドリも部屋を出た。
そして通信機を起動すると、今度は出勤中のER職員全員の通信機につながるローカル回線に切り替えた。
「ミドリよりER全職員へ。これより10分間、診察1番への立ち入りを禁ずる。これより10分間、診察1番への立ち入りを禁ずる。手の空いている医療スタッフは、診察1番の患者をカメラ映像でチェック、異常が見られたら直ちにミドリに連絡されたし、以上」
ミドリは回線を切ると、今度はマヌーに連絡を取った。
「マヌー?僕だ、今の連絡は聞こえたかい?……うん、連絡したとおりだ。だから感染症検査は10分後に実施できるように準備しておいてくれ。え、なんでこんな指示を出したかって?……少し、気になることがあってね。頼んだよ」
ミドリは通信を切り、センター長室へ向かった。
目的は診察1番のカメラ映像の確認。ER内の各部屋のカメラ映像は、受付のほかに、センター長室でも見ることができるようになっている。ミドリはセンター長がいないことをいいことに、時間を持て余したときはセンター長室を占領し、患者の様子をチェックすることがあった。
だから今回も、慣れた手つきでセンター長室に入り、躊躇なく椅子に座り、患者の様子を確認し始めた。
ミドリが確認を始めて5分ほど経った頃だろうか、少女の様子に変化が見られた。心なしか、少し震えているように見える。
同じタイミングで、通信機からコール音が鳴り響いた。ミドリは通信に応答する。
「僕だ、何かあったか?」
「受付です。診察1番のカメラ映像を確認したんですが、心なしか、患者が震えているような気がするんです……」
「……やっぱりそう見えるか。オーケー、次の指示を全体に出す、しばし待機」
ミドリは通信を切ると、再びローカル回線に切り替えた。
「ミドリよりER全職員へ。診察1番の入室制限は現時点を持って解除。速やかに患者の確認に行くとともに、感染症検査を実施されたし。速やかに患者の確認に行くとともに、感染症検査を実施されたし、以上」
通信を切ると、ミドリは診察1番へと向かった。
診察1番へ向かうと、小刻みに震えている少女がいた。先ほどとは異なり、過呼吸は起こしていない。
「どうした?体調悪い?」
ミドリは少女に声をかける。
「少し、寒気が……」
「よしわかった、マヌー、感染症の検査を実施してくれ」
ミドリはマヌーに指示を出すと、いったん部屋を出て、院内の内線に繋いだ。
「ERのミドリだ、心療内科医を診察1番によこしてくれ」
 
30分ほど経った後、ミドリは受付で心療内科医のアンドーンから診察の結果を聞いていた。
「以前の記憶がないということなので、断定はできませんが、状況からして、『ひとりぼっち』の状況に強いトラウマがあるのではないかと考えられます。先ほど、発熱や過呼吸、悪寒の症状が出たと伺ってますが、感染症検査の結果は?」
「……思っていた通り、すべて陰性だ。未知の感染症でもない限り、可能性はゼロだよ」
「となると、その症状も、トラウマによって誘発された可能性が高いですね。もっとも、彼女の場合は心因性と考えるには症状が重すぎるのが気になるところですが……」
「確かに、そこが引っかかるところだね……当面は引き続きウチで様子を見てみるよ」
「わかりました。何かあったら、いつでも呼んでくださいね」
そう言うと、アンドーンは去って行った。
「さて、どうしたものか……常に誰かが一緒にいるというのは難しいし……」
ミドリは打開策を思案し始めた。最終目標は彼女のトラウマを取り除くことだが、今の段階から練習を始めるのは厳しいところである。そして誰かが常にそばにいるのも厳しい状況だ。となると、取れる手段は1つ。
ミドリはそばにいたエリクに声をかける。
「エリク、カーテンベッドってどっか空いてるっけ?」
「ん?今だと確かカーテン3番が空いてなかったか?」
「ん~、3番だとちょっと遠いか……?」
「どうしたんだよ、いきなりそんなこと聞いて?」
「ん、診察1番の患者の場所を移そうと思うんだけど、できれば受付から近くて、かつお互いにいつでも様子を見れる場所に移したいんだよねえ……」
「ああ、例の患者か?だったら、カーテン1番の患者とスイッチすればいいんじゃねえの?」
「え、大丈夫なの?確か君の患者だよね?」
「ああ、状態安定してきたしな。3番に移動させても問題ないだろう。なんならICUに移動させるか?」
「……いや、流石にICUに移動させれるほどには安定してないよ。カーテン3番への移動で十分だ。……感謝するよ、エリク」
「とんでもない。それより、さっさと動かしてやれ。またさっきみたいなことになったら困るだろ?」
「……ああ。」
ミドリは診察1番へ向かい、エリクはカーテン1番の患者に声をかけた。
「すみません、ちょっとベッドの場所動かしますね?」
 
「ありがとうございました、ナギサさん、様子見ていただいて」
ミドリは診察1番に入ると、少女に付き添っていたナギサに声をかけた。
「いえ、とんでもないです。では私は事務に戻りますので」
そう言って、ナギサは部屋を後にしようとしたが、それをミドリが止めた。
「あ、ちょっと待ってもらっていいですか?手伝ってもらいたいことがあって」
「あ、いいですよ」
ナギサが応じると、ミドリは少女に声をかけた。
「突然で悪いんだけど、今から君のベッドを別の部屋……部屋?まあいいか、とにかく、別のところに動かすよ」
「別の……ところ?」
「ああ。君からも僕たちからも、お互いが見えやすい場所に移動させる。その方が安心できるんじゃないかなと思ってね」
「……わかりました」
「ナギサさん、頭側お願いしていいですか?」
「わかりました」
ミドリは足側につき、ベッドを動かす準備をする。
「準備完了しました」
「よし、車輪のロック解除、カーテン1番へ動かしましょう」
ミドリとナギサは少女のベッドを移動させた。
「ここなら、大抵近くに誰かしらいるし、受付も近いから、何かあったらいつでも声をかけてね」
「……ありがとうございます」
その時、ナギサの通信機から着信音が鳴り響いた。
「あ、すみません、ちょっと出てきますね。――はい、ナギサです。……え?今からですか?……わかりました、ちょうど近くにいるので、声かけてみますね」
ナギサは通信を保留状態にし、ミドリの下へ近づいた。
「ミドリ先生、司令部から呼び出しです」
「司令部から?用件は?」
「……『先月の患者数』について、確認したいことがある、と」
その言葉を聞いたミドリの表情が変わった。
「先月の患者数」についての確認。これは大して捻ったものではないものの、一種の暗号である。
つまるところ、「今月入院した患者についての事情聴取」が本来の目的。主に司令部に身元を照会した患者のうち、身元不明扱いとなった患者について適用される。そして、今月司令部に照会して通常と異なる結果が出たのは、偶然にも1例のみ。そう、他でもないこの少女である。
しかも普段であればメールでやり取りするが、今回は直接呼び出しである。司令部も、彼女には何か事情があると睨んでいるようだ。
「……わかりました、司令部にすぐ行くと伝えておいてください。戻ってくるまでの間、現場指揮をお願いします」
ミドリはナギサに言うと、セントラルタワーの司令室へと向かった。
 
「待っていたよ、ミドリ」
司令室に着いたミドリを迎え入れた声。温和ながらも芯のある声は、セントラルに住む者なら一度は耳にしたことがあるだろう。
声の主に、ミドリは不敵な笑みを浮かべて応じた。
「……やっぱり、『司令部』というより、君が直々に呼び出したってわけか……クロフォード」
クロフォード。セントラルシティのリーダー。ミドリを呼び出したのは、他でもない彼であった。
「早速だが、本題に入ろう。例の少女の件についてだが、現在の状況は?」
「多分君の方にも大方情報は入ってるだろうけど、彼女は重度の記憶喪失状態で、しばらくは一人で生活するのは難しいだろう。ゆえに一刻も早く退院後の里親を見つける必要がある。それからこれは初耳だと思うけど、彼女はひとりぼっちの状況に強いトラウマを抱えている可能性が高い。実際、部屋に一人きりにさせたのち、発熱などの身体症状がみられた。現在は受付の近くにベッドを移して様子を見ているが……正直、色々と気を遣う必要があるだろうね」
「なるほど……それは君も大変だろうねえ」
クロフォードの問いかけに、ミドリは不思議な顔をしながら応じる。
「ん?あ~、まあ確かにひとりぼっちの体調不良が起きたときはちょっと焦ったけど、とはいえ身体的には今のところ特段問題があるわけじゃないし、本人も素直でいい子だし、そんなに大変でもないかな?」
「……ああ、そういうことじゃなくてね?」
「……どういうこと?」
ミドリはますます不思議そうな顔をする。次にクロフォードが発した言葉は、ミドリの予想を大きく超えるものだった。
 
 
「君、あの子の後見人になってくれない?」
 
 
30秒ほどの沈黙ののち、ミドリは口を開いた。
「……は、はあああああああああああああああああああ!?」
ミドリの口から出たのは、まぎれもない絶叫であった。
「ぼ、僕が、後見人……?」
「そう、君に頼みたいんだよ」
「……あの、僕、独身だよ?子育ての経験ないよ?」
「大丈夫、小児科医なんだから子どもの扱いには慣れてるでしょ?まだ意思疎通も難しい赤ちゃんを預かるわけじゃないんだから、問題ないと思うよ?」
「……僕、男だよ?年頃の女の子だと色々あるんじゃない?女の子の悩みとかわかんないよ?」
「そこはナギサくんとかてへぺろくんにサポートしてもらえばいいんじゃないかな?2人とも女性だし」
「もはや司令部にもてへぺろで通ってるのかアイツ…… ってそうじゃなくて、僕救急医だから不規則勤務だよ?確かに医局長になって多少はマシになったけど、それでも昼夜問わず仕事に行く可能性はあるんだよ?」
「その時はERの誰かに面倒見てもらえばいいんじゃないかな?受付にでもいればいい看板娘になると思うよ?」
「家は?2人なんて住めないよ?独身用の住居なんだから」
「そこはこちらで新しい住居を用意しておくよ。もちろん、こちらの都合もあってお願いしてるわけだから、家賃は今より高くならないようにする。そうそう、新しい住居、ちょうどナギサくんの隣の部屋だから、家でも何かあったらすぐ助けられるよ?」
ミドリの懸念を、クロフォードはことごとく払拭……というより、強引に叩き潰していく。もはやミドリに逃げ場はない。
「……とはいえ、さすがに急すぎるよ。1日だけ考えさせてくれ」
ミドリがそう言って司令室を後にしようとしたとき、クロフォードが声をかけた。
「いいのかい?このままだと彼女、本当に誰かのところにいっちゃうよ?」
その言葉に、ミドリの動きが止まった。
「……な、に?」
「僕が君の本心に気づいてないとでも思っていたのかい?まったく……」
クロフォードははっきりと言った。
「一番彼女の後見人になりたいと思っているのは、他でもない君なんでしょ?」
その言葉に、ミドリははっとした。後見人の選定を依頼した時から、心に残っていたモヤモヤ。それを改めて突き付けられたからだ。
「彼女、スマホを持ってたんでしょ?」
「……ナギサの奴、そこまできっちり伝えてたのか」
「君と同じようにスマホを持っていたってことは、彼女は君の記憶に大きくかかわっている可能性が高い。それに、彼女は記憶喪失でもあるから、君との共通項がすでに2つもあるわけだ。それも、とてつもなく大きな共通項がね。もちろん、記憶を取り戻したいというある種の下心もあると思うけど、それ以上に、君は彼女の力になりたいと思ってたんでしょ?似た者同士としてさ」
ミドリが目を背けていた本心を、クロフォードはずばっと言い当てた。
「……だけど、それじゃあ」
「公私混同になるって?」
「……!」
ミドリが言おうとしたことは、クロフォードはすでにお見通しであった。
「はあ、君それなりにノリはいいのに、肝心なところはクソ真面目だよね、ホント。そんなこと言いだしたら、子持ちの職員は誰も自分が働く病院に子どもを連れていけなくなるでしょ?それに、メディカルに赤ちゃんを連れてきた母親がそのままいなくなって、結局職員がその子の里親になったっていう事例だってあるんだし」
クロフォードはミドリの考えを一蹴した。
「里親や後見人になるために何より大切なのは、その子をきちんと愛して育てられるかどうか、なんでしょ?だったら、その条件を一番満たしている君に真っ先に話を持ち掛けるのは、当然のことじゃない?」
そしてクロフォードは、とどめの一言を放った。
「……自分の気持ちに素直になりなよ、ミドリ」
 
「あ、おかえりなさい、ミドリ先生」
ナギサは司令部から帰ってきたミドリに声をかけた。しかしミドリはそれに応じることなく、まっすぐに少女の病室へと向かっていった。
「……?」
気になったナギサが病室へと向かうと、そこにはすやすやと眠る少女と、神妙な面持ちのミドリがいた。
「……ミドリ先生?」
ナギサが再び声をかけると、ようやくミドリが口を開いた。
「……ねえ、ナギサ」
「はい?」
「……僕がこの子の面倒を見る」
「……え?」
「決めたよ。後見人として、彼女が立派に成長するまで……全力でサポートする」
ミドリがはっきりと言うと、ナギサが静かに笑みを浮かべた。
「……やっぱり、そうだったんですね」
「え?」
「気づいてましたよ。先生の気持ち」
「……はは、ナギサにまでバレてたなら、きっとみんなにもバレバレなんだろうなあ……」
ミドリは思わず頭を掻いた。
「大丈夫ですよ、いざというときは私もサポートしますから」
「……そう言ってもらえると心強い」
ミドリはそう言うと、ナギサに頭を下げた。
とその時、少女が目を覚ました。
「お、お目覚めのようだ」
ミドリは傍にあった椅子に腰かけた。
「……ねえ、大事な話があるんだけど、いいかな?」
ミドリの問いかけに、少女はコクリと頷いて応じた。
「……退院後のことなんだけど、僕が面倒を見ることになった」
ミドリの言葉に、少女は驚いて目を見開いた。
「僕もまさかそうなるとは思ってなかったんだけどね。とはいえ、流石に僕も女の子の面倒を見るなんて初めてだから、ここにいるナギサや、僕の腐れ縁にもサポートを頼むけどね。あいつに頼んで大丈夫かって心配はあるけどさ……
そう言うと、ミドリは手を差し出した。が、あることに気づきすぐに引っ込めた。
「ということで、これからよろしくね。え~と…… そういや、この子の名前ってなんだっけ?」
「あ、そういえば名前聞くのすっかり忘れてましたね」
「……覚えてない、です」
「まあそうだよね~。……あ」
その時ミドリはあることを思い出した。少女を見つけたとき、彼女がつぶやいた言葉。
「……ネーダ。うん。いい響きじゃないか。よし、とりあえず君の名前は、ネーダってことで」
そう言うと、ミドリは再び手を差し出した。
「改めて、よろしくね、ネーダ」
少女 ―否、ネーダも手を差し出して応じた。
「……こちらこそ、よろしくお願いします。ミドリ先生」
そして2人は、固い握手を交わした。
 
 
「……あれからもう、だいぶ経ったんだな」
回想にふけっていたミドリはそう呟くと、すっかり寝入ったネーダの寝顔に向かって、そっと声をかけた。
「……これからもよろしくね、ネーダ」
 
 
 

あとがき

驚 異 の 1 万 3 千 字 。
まさかこんなに字数行くとは思いませんでした。前作の2倍以上です。恐ろしいですね。
とりあえずネーダ登場初期に明かされた話については、ある程度掘り下げて書けたんじゃないかと思います。多分。
本当は退院直後のお話まで書こうかと思いましたが、最後は綺麗に締めたかったので今回はカット。だって退院直後はドタバタ劇なんだもん。そのうち気が向いたら書くかもしれないけどあんま期待しないでください。
そうそう、作中で出てくる心療内科医の名前には一応由来があったり。もしピンと来た人がいたら、多分某医療ミステリー小説を読んでる人だと思うので、きっとうまい酒を飲み交わせると思います。まあ中の人は下戸ですが。