「ほやっ、えっ、ええ?名前がないってどういうことなのよ!アークスに登録する時も名前は必須なはず!」

「おわっ、ちょっと落ち着けよ……」

 一族を記憶する者として、自分の本名を封じて一族の名を背負い生きてきたテノにとって、名前は大事なものだった。
 それを持たない人間がいるとは思わず、朝日の綺麗さも忘れて少年に詰め寄った。

 あまり広くない足場の上で突然勢いよく迫られ、少年はたじたじだ。なんとかテノを落ち着かせようとする。

「一応仮の名前はあるんだよ。ナナっていう名前。”名無し”から取った。俺親いないからさ、名前知らないまま育ってきちまって」

「え……、親がいないって……」

「そ。赤ん坊の頃、中央エアリオのどこかに置き去りにされてたみたいでさ、テイムズたちが育ててくれたんだ。ここまで生きてこれたのも、みんなあいつらのおかげさ」

 細かい部分は違うが、親がいないという部分はテノも同じだ。場違いだが親近感を覚えてしまう。

 少年自身がその境遇をあまり気にしていないようだったから、あまり暗い雰囲気にはしないようにしよう。テノは「大変だったのね」と返すにとどめた。

「それにしても……ナナって響きは可愛いけど、名無しが由来なのは考えものね……」

「仮の名前だから、まだホントの名前はないんだよ」

 あ、とふいに少年が手を叩き、笑顔でテノを見た。その無邪気な表情は、何か凄くいいことを思い付いた時の子供を連想させる。

「テノが名付けてくれよ、俺に!」

「えっ……?」

 テノは同年代の少年に命名を頼まれたことなど一度もない(むしろほとんどの人間が経験しないだろう)。しかも、彼とはさっき出会ったばかりだ。
 命名はもっと別の、彼の親しい人がすればいい……と思ったが、彼にはその親しい人すらいないのかもしれないと思うと迂闊なことは言えなかった。
 不意打ちで名前を呼ばれたことにもしっかり動揺しつつ、テノは何とか言葉を返す。

「ちょ、ちょっと待って。貴方、さっき出会った人に名付けてもらうって大丈夫なの?」

「だって君とは初めて会った気がしなかったし。記念につけて?」

「記念って……そんなノリで命名していいものなのかしら……」

「俺がいいって言ってるんだからいいんだよ。ほら、俺の名前はっ?」

「うう、そんなに期待しないでちょうだいよ?」

 期待を十二分に含んだ、キラキラとした笑顔がテノに向けられた。さっきまでは眩しいと感じていた笑顔が、今ではプレッシャーだ。

 目を閉じて腕を組んで考える。よく聞く人名をあれこれ浮かべてみる。レイ、ジャック、マリア、アン…………いや、単に名前をつければいいというものではない。
 うんうん唸っているテノが心配になってきたのか、少年は少し困った顔になる。

「ごめん、そんなに悩むとは思わなくってさ……」

「急に人に名付けることなんて難しすぎるわ。名前は自分を表すものの一つだもの、相応の思いも込めなければいけないと思うけど……テノ、貴方がどんな人なのか知らないもの」

 うーん、と俯くテノ。ミミ子とシローは、心配そうに主を見上げていた。

「大丈夫だよ!俺、テノがつけてくれた名前なら絶対気に入るから。ほら、朝日でも見ながら考えようぜ」

 少年は確信めいた顔で言った。
 そういう言葉がプレッシャーなのよ、と小さく文句を言いつつ、テノは視線を上げた。

 ハルファの夜明けは綺麗だ。少年の笑顔と似ている。……ちょっと待て。…………夜明け?

「朝日……朝……夜明け…………暁」

 朝に関する言葉を、思いつくだけ口に出してみる。すると、一つだけストン、とテノの胸に落ちたものがあった。
 彼と見たこの夜明けの景色。それを一言で表すのは、「暁」という言葉。

(暁!でもそれじゃ物足りないわ……)

 どうせならもう少し意味を付け足したい。「暁」だけでは、ただ夜明けを表す言葉になってしまう。

 テノは、少年の名前のヒントを得るために、じっと彼を見つめた。目が合うと、少年は一瞬キョトンとしたが、すぐに明るい笑顔を見せてくれた。

 その笑顔を見て、テノの中で少年の名前は決まった。

「貴方の名前は暁明よ。貴方とテノが出会ったこの夜明けの景色と、貴方のその明るい笑顔から取ったの」

「ぎょ、ぎょ、め……?」

 暁明。それが、テノが少年に与えた名前だった。自分にしては上出来だなと思った。
 どうだ、と少年を見た。

 少年――暁明は、戸惑っていた。名前も言えていない。
 その反応を見て、テノは少し落ち込んだ。暁明、だなんて聞いたことのない名前だ。このエアリオで自由に育ってきたであろう彼からしたら、難しかったのかもしれない。

「ぎょ、う、め、い。……わかりづらかったかしら?」

「いや、そんなことないぜ。暁明、な。俺は暁明かぁ」

 ありがとな!とまた暁明は笑う。心の底から嬉しそうなその笑顔に、テノもつられて笑顔になる。

 その時、ふっと何かが二人の間に割って入った。突然目の前に割り込んできた何かに驚き、テノは飛びのいた。

 二人の間で空中をふよふよと浮遊するのは、丸みを帯びた小型の機械だった。その形状は、オラクルのマグに酷似している。
 暁明はそれが何かわかっているようで、さして驚いた様子はない。彼の持ち物だろうか。

「これマグ。オラクルにもあるんだろ?兄さん……オラクルから来た人が言ってた」

「あるわよ。ハルファのマグもオラクルのとそこまで変わらないのね。それと兄さんって……」

 テノが言い終わらないうちに、マグから声が発せられた。

「おはよう。お前はそこで何をしているんだい?そんな朝からマヒナパリ山の頂上で……」

 穏やかな男の声だった。マグからの連絡、そしてこちらの位置を一方的に把握できている点から、オペレーターである可能性が高い。
 だが、オペレーターたちの仕事場であるタワー管制室の中にいた人は、クロフォード以外は女性だったはずだ。男なんていただろうか?

「おはよ。今は山頂で朝日観賞中だぜ」

「そう。……で、君のすぐ隣にデータ登録されていない生体反応があってね。そこにいるのは何者だい?君に危害を加えていないから、敵ではないとは思うけど」

 その生体反応とは、間違いなくテノのことだろう。
 穏やかさの中に、わずかに警戒心をにじませる男の声に、テノは身をこわばらせた。
 だが、暁明はそんな緊張をものともしないのか、ただ感じていないだけなのか、笑顔のままマグに話しかける。

「俺名前貰った!暁明!ぎょ、う、め、い!」

 暁明の返答は、返答とも呼べないほど的外れなものだった。会話のドッヂボールである。
 マグの向こうの相手はそんな暁明の態度にも慣れているのか、穏やかながらも淡泊な態度だ。

「……そう、よかったね。もう一度聞くけど、そこにいるのは何者?場合によってはこちらまで連行してもらうよ」

「連行?する必要ねえよ。オラクルから来たアークスに会ったんだよ。映像に切り替える?」

 そうだね、と言って相手は黙った。
 その数秒後、マグは暁明の方を向いてホログラム画面を映し出した。

「テノ」

 暁明がちょいちょい、と手招きし、テノを呼ぶ。テノは肩に相棒二匹を乗せて、彼の方へ向かった。

「君がオラクルから来たアークスかい?」

 画面には、管制室特有のほの青い光を受けた青年が映っていた。
 彼の表情は真面目そのものだが、菓子だろうか、食べ物の欠片が口の端についているせいで、妙に間抜けな絵面となっていた。
 どんなことであれ、食べ物に関しては見逃すという選択肢がないテノは、すぐに青年の食べカスを指摘する。

「そうよ。ところで貴方、口の端に何かついてるわ」

「ありがとう。さっきの休憩でマカロンとクッキーを食べていたから、きっとそのカスがついたままだったんだね」

 青年はさして驚いたふうでもなく、微笑んで礼を言った。

「えっ、マカロン?クッキー?食べたい……じゃなくて」

 青年が口周りをハンカチで拭うのを見届けて、テノは口を開いた。

「テノはテノっていうの。所属はオラクル船団の第三番艦。少し前に事故みたいな形でハルファに来て……暁明くんには、危ないところを助けてもらったのよ」

「そうか。……で、テノ嬢はオラクルのアークスなんだって?」

 オラクルという単語に青年が違和感を覚えている様子はない。彼はオラクルの存在を知っているのだろうか。

「ええ、そうだけど……。貴方、オラクルを知っているの?」

 すると、青年は少し疲れたような笑みを浮かべた。どうしたんだろう、とテノが疑問に思っていると、横から暁明が口を挟む。

「この人、オラクルのアークスだったんだ。さっき言った俺の兄さん」

「私はセナ。訳あってセントラルシティのオペレーターをしている。早速だけどテノ嬢、君の仮のデータ登録のために、私の質問に答えてくれるかい」

「ええ、勿論いいわよ」

 そこからは、青年――セナの質問の通りに答えていく。所属艦、所属チーム、種族、クラス、性別……。

 一通り答えると、セナは「お疲れ様」と笑顔を向けた。

「これでテノ嬢のデータは登録できたよ」

 ところで、と言うと、セナは困ったように眉を八の字にした。急に困り顔になったセナに、テノと暁明、ついでに兎たちも首を傾げた。

「……テノ嬢、君は何で全身びしょ濡れなんだい?そんな状態で寒くないのかい」

 そうだった。あの大滝の付近で戦闘をして、散々飛んだり跳ねたり転がったりした挙句、水浸しになったのだった。
 自分が濡れネズミであることを思い出すと、急に寒くなってきた。思わず両腕で自分の身体を抱く。

「あ、わりぃテノ。君が濡れてることすっかり忘れてたぜ……」

 暁明が申し訳なさそうな顔になり、テノに謝る。テノは笑って許そうとした――もとより怒る気はなかった――が、セナが許さなかった。
 お前がテノ嬢をそこに連れて来たのかい、と数段低い声で暁明に問うセナ。暁明も、セナの迫力に押されて一つ頷く。

 くしゅん、とテノがくしゃみをした。セナの目つきがあからさまに鋭くなる。彼の視線の先には、気まずそうな顔をした暁明。

「全身濡れている女の子を高山の頂上に、しかも朝に連れて行く馬鹿がいるか。朝は冷え込むし、山の上は風が強のはわかっているよね。テノ嬢が風邪を引いたらお前の責任だよ」

 早く戻ってきなさい。セナは強い口調で暁明に言った。

「う……わ、わかったよ。すぐ戻るから!じゃな!」

「あっこら待て!」

 セナが止めるのも聞かず、強引に通信を切った暁明は、テノに手を差し出した。その手が何を意味するのかわからず、テノは暁明を見る。

「ここからフォトングライドすると、シティの中まで行けるんだ。グライド中は鳥になったみたいで気持ちいいんだぜ」

「ほやぁ……それは素敵ね。じゃあ道案内をお願い」

 テノは笑い、暁明の手に自分のを重ねる。肩に乗る兎たちも、主人らがこれから何をするのかわかったのか、ぎゅっとテノの身体にしがみついた。

「手ぇ離すなよ?」

 テノの手をしっかり握った暁明は、にっと笑った。
 二人で呼吸を合わせ、山から飛び降りる。そして、風とフォトンの流れに身を任せてゆっくりと降下していく。
 頬に心地よい風を受けながら、テノは隣の暁明を見る。と、暁明の方もテノを見ていた。
 どちらからともなく笑い声を上げ、二人はシティへとゆるやかに飛んでいった。

 ――シティの中央、セントラルタワーの前に降りようとした時、「げっ」と暁明が声を上げた。

 長い髪を頭の高い位置で結い上げた誰かが立っていた。
 腕を組み仁王立ちのその人物は、降り立とうとするテノたちをじっと見据えていた。

「何故テレポートしてこないんだい?早く戻ってきなさいって言ったよね?フォトングライドは時間がかかるだろう」

 立っていたのは、さっき画面越しの会話をしたセナだ。彼はにこにこと笑っているが、恐ろしいほどの圧を放っている。
 地上に着地したその時、多分説教が始まる。セナの性格はほぼ知らないが、テノは何となくそう感じた。

「テノ嬢、宿舎の空き部屋があるから、そこで着替えてくるといい。風邪を引いたらいけない」

「あ、ありがとう……。それじゃあ暁明くん、またね」

「え、俺も行く!」

「何言ってるのバカタレ。お前はこっちだよ」

 ついて来ようとした暁明の腕を捕まえ、タワーの中へ消えていくセナ。引きずられていく暁明はというと、何故か嬉しそうだった。

「またな、テノ!」

 後日。
 再会したテノと暁明は、ひょんなことから同居を始めることになるのだが、それはまた別の話。