『影』は彷徨っていた。
自らの絶望を容れるに相応しき器を求めて。
ここはハルファとは別の世界。
そういう時期なのか知らないが、周囲の人間は揃って浮かれ騒ぎしていた。
――うぜェ。何もかもブッ壊してェ。
苛立ちが募る。だが同時に理解もしていた。
奇しくも『魔王』に取り入る作戦は失敗に終わってしまった。
彼女の絶望よりも忌まわしき『希望』に阻まれたために。
実体を得なければ、『奴』はおろかこの人間共にも決定打を与えられない。
癪だが、自ら干渉に出るためにも器が必要なのだ、と。
そうして放浪を続けること暫く。
『影』は興味深きものに無い目を惹いた。
――コイツぁ面白ェ。
すっかり魂の抜けたらしい肉体に『影』は入り込む。
『影』の入った肉体は黒い靄を纏い、何かに持ち上げられるようにぬるりと起き上がった。
その黒い靄は更に服と顔を隠すフードを形取ってゆく。
まるで肉体と『影』が完全に順応しているかのように。
「……ヒヒヒッ、やっぱ思ってた通りだなァ。コイツぁかなり馴染みやがる」
邪悪な眼はわきわきと動かす手や足を見、口はにやりと卑しい笑みがこぼれた。
――そこへ、人間の肩がすれ違いざまに掠った。
「あっ、ごめん」
どうやらカップルの男のほうが当たってきたらしい。
ぺこりと会釈してカップルは去ろうとする。
――ああ、うざってェ。
そう思いつつ、フードを被った男に入り込んだ『影』は遠くからカップルに手を伸ばす。
すると、黒い靄の一部はカップルの2人へそれぞれ入り込んでゆく。
その途端、カップルの女のほうがいきなり男へ向かって声を荒らげだした。
「ねえあなた!いつまでこんなことしてるつもりよ!?寒いったらありゃしないわ!」
「何だ急に!外に出たいって言ったのはお前の方だろ!ってかベタベタくっつきすぎなんだよ!」
男のほうも豹変したかのように大声で怒鳴り始める。
それを機に、カップルの口喧嘩が勃発―次第に過熱してゆく。
と、次の瞬間。
「ふざけんじゃねえよ!」
カップルの男が女の顔面を殴り飛ばし、負けじと女も男のスネに蹴りを入れ殴り合いに発展し始めた。
黒い靄がそれに呼応するように2人に纏い始め、凶暴化が強くなってゆく。
『影』の男はそれを見て卑しく嗤い出した。
「ヒヒヒヒッ!これだよ、これが人間の本性だよなァ!!さァ、もっと争えよォ!」
カップルの争いをただ愉快に嗤い続けていた、その時。
グサリ、と刃物が肉体を貫く音がした。
いつから持っていたのか包丁をカップルの女が握りしめ、男の心臓を穿ったのだ。
再び『影』の男が手を伸ばすと黒い靄が晴れ、2人は正気に戻る。
「…………え?」
女は呆然としていた。自分が刺したとも気づかずに。
「な………んで………」
心臓を刺された男は声にもならない声を上げると、ふらりと体を反らした。
ゆっくりと男の身体から包丁が抜け、その返り血は女の顔に打ち付けられる。
女の目の前にあるのは血に濡れた包丁と自分の手、愛している男の死体と血。血。血。
「いや……………いやああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
恐怖と絶望のあまりその場にへたり込んだまま声を上げるしか無かった。
「なんで………なんでなんでなんでなんで………あ……ああああ…………」
死体の男に近寄ることもできず、涙目になりながら絶望の表情で。
「ヒヒヒッ……ヒャーッハハハハハハハァ!!最高だぜオイ!」
『影』の男はあまりにも愉快だったのか嗤い狂っている。
「安心しなァ。テメェも同じトコに行きてェだろォ?」
そう言って、再び女の方へ手を伸ばすと黒い靄を纏わせた。
今度は全身ではなく、包丁を握りしめている手腕のみに。
「あ…………ああああ…………」
絶望に染まった女に為す術は無く、握った包丁は女の喉を貫いた。
ヒュー、ヒューと声を出すこともままならず、包丁が刺さったまま女の体は傾きべしゃりと血溜まりに伏した。
一部始終を見ていた『影』の男は卑しく嗤いつつカップルの死体に近づき手を伸ばすと、
黒い靄は死体から離れ『影』の男に吸収されてゆく。
「ヒヒヒッ、たまんねェなァ。とびっきりの絶望の味はよォ」
グシャッと死体の頭を踏みつけていると遠くから足音が聞こえた。
おそらく騒ぎを聞きつけて駆けつけて来ているのだろう。
「ケッ、いいところだったのによォ。まァいいか、ヒヒヒッ」
そう言うと『影』の男は空間を裂き、亀裂の中へと入り消えていった。
『影』の男は次元の境界を泳ぎ、次なる標へと向かっていた。
――標的は惑星ハルファ、そして『世界ノ忌ミ子』イライザ=スカーレット。
かの女を殺し、この世界に多く蔓延る絶望を以て総ての世界を闇に沈めるために。
「さァ始めようぜェ。このクソッタレな世界の終幕をなァ!ククッ、ヒヒヒヒ……ヒャーッハハハハハハハハハ!!!」